不如帰
暗闇に徘徊する獣も、暁が迫る前に巣に戻って、疲れた体を蔀に横たえ幸福の眠りに付く頃・・・
午前3時過ぎのことでした。蚊に悩まされとうとう起きてしまいました。深い眠りの筈でしたが、起きてみると疲れていてそっと溜息を漏らしたものでした。迷った末にこのまま起きる事にし、階下の土間に下りました。
厚み一寸の檜の板を敷いた階段は、僕が寝ていた洋間からドアを開けて出ると、廊下の右手にすぐにあって、カッコ型に降りるようになっています。階下に下りると、1間と2尺の土間が南の方角におよそ7間程の長さで通してあり、そこに樅の木を半割にした飯台を据えています。
飯台の上は散らかったままでした。釣具、灰皿、パソコン、飴玉の入った子壜、そして飲みかけの茶碗などでした。パソコンを開き、新しく珈琲を沸かしたてました。それを蕎麦猪口に入れ飯台の隅に腰掛けていると、硝子越しに黒い山陰が僅かに揺れたように感じたのです。
・・・全く静かでした・・・
山が膨れたようになり、それは僅かでしたが、生きているように思えました。数年、土間の天井に巣を作り生活してきた燕が垂れ下がった電球の線にいました。頭を風切りの中に入れています。福良雀のようになっていました。また山陰を見ました。檜と杉が混生している山は、漆黒の上にさらに、漆黒を鏝塗りしたようになっていました。山が息をしているように思いました。そのままじっと見ていました。
・・・その時、黒い布を裂くように、不如帰が鳴いたのです・・・
その女は厄介なものでした・・・。その女と関係があった数年間は、・・・
死んでしまう事をいつも考える日々でした・・・結局それにも疲れ果てていました。
牢獄に入れられ、尚且つ、足枷をつけられて生きているように思えたのでした。
それでも足枷が取れて、牢獄の窓から時折、外を見ることが許されるような日々になったのです。いわばその間、僕は孤立していたのです。こちら側とあちらという風に。僕は世間に交わらずに、小さな窓からいつも外を眺めていました。でも狭い窓は、窓枠に近づくと外の世界がよく分かるのでした。
それから、1,2年過ぎました。
初夏でした。或る日、別の女と出会いました。
女の目は悲しみを湛えていました。窓枠の内と外で、いろいろな話をしました。優しくて、おてんばでした。
良い人だと思いました。でも、僕は牢の中にいます。いつしか牢獄を出る事が怖くなっていました。その牢獄は、もはや厄介な女のそれではなくて、僕自ら入った牢でした。あれからもずっと、僕は孤立していました。優しい女は、僕を、窓枠から出そうと手を差し伸べました。時に、手に触れることもありましたが、僕は牢の片隅にうずくまり、女を見つめるだけでした。女は牢獄を知らずにいました。僕のような牢を持たない女でした。
ある時、優しい女は、女の、過去を語ったのです。それは裏切りの物語でした・・・
悲しみの目が畏れを湛えています。僕は、窓枠越しに、熱心に聞きました。同情の言葉は言いませんでした。窓の外は、どこかの山間の谷川になっていました。不如帰が鳴きました。澄み切った声でした。
不如帰は、鶯の巣に、託卵するそうです。昔の風流人は、不如帰の初音を聴くために、誰よりも早くに、船を出し、山にこもったりしたそうです。また不如帰は、
鶯の声に似せようとして鳴くとも言われるそうです。
僕は、似ているとは思わないけれど、山に染みる声音は似ているように思いました。
優しい女は、不如帰の事はよく知っているようでした。僕は、何も知りませんでした。
今年になって、3月5日に鶯の初音を聞きました。3月24日に燕がやってきました。そして、山は新緑に萌え始めていました。不如帰が鳴いています。僕は、不如帰の鳴き声が気になりだしたのです。夜にも鳴くことは、今年になって知りました。庭のヤマモモの木に、実が沢山つきました。それを眺めていたときに、山の頂きから・・僕にはそう思えたのだけど、ひときわ澄み切った声音で不如帰が鳴いたのでした。5月のことでした。
今になって、僕は思うのだけれど、もちろん牢獄の生活は続いていて、それに、窓枠から覗き見る癖はやめていないけれど、人間にとって愛することが大切なんだな、って・・・もっと純粋な事は、愛し続けることなのだって・・・そう思う。優しい女は、僕の不正を見抜いて、僕の前から去っていったけれど、僕は、僕だけを愛してほしかったのだと思う。愛しつづけて欲しかったのだと思う。当時の僕は、牢から抜け出すためにそう思っていました。不正は、僕への不正だったから・・・僕はすでに、牢に入っていて、その僕を見て欲しかったのだと思う。
でも、これは、不如帰のように、託卵しているようなものだと思う。僕は病に冒されていて、数年生きていられるか分からないけれど、愛される資格も、価値も無いけれど・・・
もし僕が、生きられるとしても、哀しいし、空しいと思う。山は青々として、夜も息遣いが聞こえてくるようです。そして、今夜も、不如帰が鳴いています。僕は、それを、じっと聞き入るのでした。