I do not know “why?”
晩秋の僅かな夕刻・・・。
闇が濃くなると幹や枝葉は闇の中に消え去り、暮色に染まった山間の茶畑に、柿の実だけが浮かぶように滲み出てくる。「照り柿」はわずかな時、現れ消える。
そして、・・・・夜が降りてくる。
「夜」は心の有り様であった。時には漆黒にすべてが塗りつぶされた。すべての夜がそうであった訳ではないが、月の光に物の形がはっきりと理解できる日もある。そんな時は、杉や檜、椎の木の類、落葉の木々、そして細々とした谷間の水の振る舞いは、微光の発光体となって生きている様だった。弱々しい蒼白き光の生命態、そんなふうに見える。
「照り柿」を幾年見たことだろう。妻が死んだ年にも見た。その年は、色や形、自信の身の回りにある山や川、全ての色や形が強烈な光で私を焼き焦がしたのだ。
そんな気がした・・・・。
堕落して心の闇の中にいたのだから、日の光の強さを感じたのかもしれない・・・。
そのような自己分裂の年であっても、晩秋の夕闇の中に数秒の間、「照り柿」は現れ消えた。
・・・その日・・・
九平次は目覚めの悪い朝を疎んでいた。体中が圧迫感に包まれて重く、「嗚呼・・」とか「うう・・」と、奇妙な声を出しながら起きなければならなかった。鮎漁が解禁して2ヶ月を過ぎる頃から、体中が重く感じられる日が幾日か続く。痛さを伴い、数日、或いは数十日にわたって体中が不協和音のように、しかも、それは、悪質な何者かが体に入り込んでいるような感じさえするのだ。毎年(いつも)のことだった。
早朝は小鳥の「さえずり」だけが聞こえる。
山の稜線が、オレンジ色の陽の光には未だ早い白じむ空に、黒々と浮かび上がっていた。九平次の住は、平屋の、いかにも小さな家である。
入り口を入ると一間半の土間が打ち据えてあり、土間に面して、六畳と八畳の板の間がしつらえてある。その奥は台所となっている。八畳の板の間には囲炉裏がきってある。
六畳の板の間に煎餅布団を敷いたまま、土間に降りる。コーヒーを沸かし、ふと、寺岡に電話をかけてみようかと思い立った。
寺岡のところへ、電話を幾度かかけても、呼び出しの音しか響かない日が続いていた。
頻繁にという訳ではなかったけれど・・・。毎年、鮎漁の期間中に寺岡の方から電話があった。けれど、今年にかぎって鮎漁の解禁以前から、九平次の方から寺岡への電話をしていたのだ。あいかわらず受話器の向こうのコール音が鳴るだけであった。
「一体、・・・どうしたんだろう?・・・」
鮎漁の季節になっても、寺岡修三からの電話は無かった。
寺岡修三は、一山越えた島田市に生まれたそうだ。大井川で友釣りを覚え、あちこちの川で釣りをして、釣った鮎を売りさばいていたらしい。今は埼玉県に住んでいる。九平次が知っているのはそれだけである。
九平次は、他人のことについてあれこれ聞いたことは無かった。本人の口から出た言葉だけだから、本当のところは分からない。寺岡は右足が不自由であった。
大きな躯体と「にいっ」と笑う不適な顔が印象的であった。圧倒的な数量の鮎を引船からたらいに出すとき、その不敵な笑いを浮かべるのが常であった。
幾年か鮎漁での暮らしの、自信の現れであったのだろう。
時々、ふっと現れては2,3日釣りをして消えてしまう。
「泊まっていけよ・・・」
「島田に妹が居るんだよ、そこに厄介になるから」
「そうかい・・・」
おとり1尾を持ち、早々に釣り場に行くのが常であった。その後姿が、印象深い。
時折、寺岡から電話が来るのは、河川の情報を聞く為であった。雇い主から鮎の注文を受けると、
「河川情報を集める」のだと、聞いている。
「どうだい?」
「水の具合はいいよ・・」
「・・・明日行く。」
水の具合とは、水位が平水に戻り始めからのことを言い、渇水であっても彼にとっては良い条件となる。寺岡は、水位の高さを常に気にしていたように思う。河川の状況を説明すると、・・
「水の具合は良いな・・」と、言うのが常であったし、私の方もそれを心得ていた。
水位の状況が、平水以下であると、
「水の具合は良いよ」とだけ、返事をした。
水位が高いと、流砂があって、野鮎はそれを嫌うようだ。それに、良い餌場を求めて野鮎の移動もある。 それに、彼は一風変わった釣りをする。
寺岡修三は、丸田鉄男について丸2年を修行に当てた。
丸太は鉄工所を経営していて、寺岡はそこの従業員であった。休日には、おとり缶を担いで連れて行ってもらった。ただ、見ているだけである。丸田は、教えることはなかった。
真夏の大井川は、ただ熱かった。広い川原の石は、熱く焼けて、日陰さえなかったが、汗をぬぐいながらひたすら見続けるのみだった。川原は、幅数百メートルもあり、鍋島から塩郷えん堤までの十数キロの川原は草木一本生えるでなく、頭大の石からひとかかえの石が延々と転がり続く。青白い水がその川原砂漠の中をうねうねと流れているのだ。
水に立っている丸太鉄男の後姿を、川原で見続けている。そして一つ一つ覚えていった。
そうしているうち、何時の間にか寺岡も師匠と変わらぬ技量をもてるようになった。
こうなると、腕試しをしたくなる。愛知、岐阜、静岡の伊豆の川と釣り歩くようになった。並外れて釣ってくるものだから、おとり屋から、
「おとりを卸してくれ・・・」と言われるようになり、日当が出る。仕事どころではない、鮎で稼ぎが出るものだから夢中で釣るようになった。
「そんな為に教えた訳ではない・・」
「仕事をしろよ」と、丸田から散々叱られるようになる。
ある日のこと、口喧嘩のすえ・・・
「鮎を売ってるほうが儲からぁ・・」
ぷいっと、出て行ってしまった。
何時だったか、九平次に
「鮎の稼ぎで暮らしが出来た・・」と、言ったものだ。
その後、寺岡の消息は分からなくなった。・・・・が、
「寒狭川(愛知県)に居たよ・・」
「板取川(岐阜県)で見た・・・」などと、噂されるようになった。
噂は火種が無いと広まることはない。この場合の火種とは、一つには地元おとり屋の評判であった。釣った野鮎をそこに卸しているか、売りさばいていると言うこともあるが、多くは釣ってくる野鮎の数量が、他の釣り師の数倍であると言うことが評判となっていたようだ。後、一つにはその釣りが、「奇妙な・・」釣り方であるということだった。
穂先が「ゆらゆら・・」と、絶えず揺れていたのだ。
丸田鉄男がその釣りを編み出した理由は分からない、が3人の弟子を持った。寺岡修三は、その内の一人である。他の2人は、いまでは竿を断っている。
河津川の土手に、先程、竹井おとり店から買ったおとり2尾を引船に入れ、柴田光男が「待ちに待った・・」はやる気持ちを抑えきれず、竿を左脇に抱えて、上ってきた。
河津桜の、今では青々とした葉桜の中間から、啼き合わせの一段と高い旋律でアブラゼミ群の啼鳴が響いていた。
川原に続く踏み跡を下りていった。
乙女淵といわれる小さな淵の上段は、三段の滝(たる)が続いてあり、中段の滝で良い思いをした柴田は、今回も同じところに入った。中段の滝は上下の滝より長い平瀬が続いていて、右岸拠りは深みもあり大きな石が点在している。上下の短く段差のある滝より釣り易くもあり、来る度に
「自分にしては良く釣れる・・」場所であった。
2月末に、河津桜が花開くこの土手に来て、桜花(はな)と川面を交互に見たことも幾度かあった。
でも、・・
耳が痛くなるほどの、セミが啼鳴する暑い夏に来て、しみじみと
「今年も、来れて・・・良かった・・・」と、思うのであった。
柴田は、名古屋港で浚渫船「清龍丸」の甲板長が仕事で、東京湾に借り出された帰路に下田港で3日間の休暇があった。その折に、河津川で釣りをしたのであった。
その時、初めて竿を出した場所が「乙女淵」の瀬だった。この場所で大釣りをして、すっかり気に入って以来、河津川の釣りを毎夏の楽しみにしている。
その河津川の水に左手を浸して、おとりを「そっと」つかみだし、願うように、
「行ってきてね・・・」と、猫撫で声で言うのであった。女房が聞いたら卒倒と、その後の噴飯の極みであろうか、・・・。
おとりにつけられた水中糸に目印が5個もつけられている。その目印が、ふっと持ち上がったと見えた瞬間、透き通った水の中に瞬く間に吸い込まれた。
「来たっ・・・」
柴田は、はやる気持ちをも楽しみながら、水中糸を手繰り寄せた。おとりに付けられた掛け針に、野鮎が掛かっていた。
野鮎の魚体は模様が一切無い。銀鱗に薄く、藍を染付けたような魚体である。唯一点、その青く染まった魚体に貼り付けたような黄色い星がついている。鰓から指一本はなれた位置に、鮮やかな黄色の細長い小判色のような星であった。
柴田の目は、川面に向けられている。野鮎を、今度はおとりにして、泳がせていた。
続けざまに、数尾の野鮎が掛かった。タバコを取り出し、口に咥えて一息つく。上流に目を向けると釣り人がいる。
「大きな人だなぁ・・・」 急に・・
土手の青々とした河津桜が、風に揺らいだ。セミの声がぴたっと止んだ。
気が付くと、急に暑さが増したようだった。天城山から山おろしの最後の風が止むと、体中から汗が吹き出るようだった。いつしかセミが、また鳴き始めた。
昼ごろになると、微かに潮の香りがした。いつも嗅いでいる、潮の匂いだ。
「腹が減ったなぁ・・・」
背後の葦草を踏みつけた。今朝方、民宿「河津館」に作らせておいた弁当をそこに置き、竿を葦草に立てかけて腰を下ろした。朝の山風とは逆の、海風に変わっていた。
と、・・・
「うわー・・・」柴田は腰を浮かしかけたが、思うようには動けない。
「あっ・・あっ・・あっ・・・」仰向けのまま、
両肘を立て、足をバタバタと蛙のように蹴りながら後ずさりしようにも腰が立たない。
背後の葦草にも阻まれ、吾を見失いかけ、失神しかけたのである・・・
・・・その夜、
「河津館」の食堂の片隅に柴田がいる。幾本かの酒瓶(ビール)が空になっている。日に焼けた顔がさらに赤くなって、その夜の柴田は良くしゃべっていた。
「ちょっと、酒を持ってきてちょ・・・」
「それでよ、おみゃさんがおらんかったらよ・・」コップのビールをグイッと飲み干し、・・
「死んどったかもしれんで、・・・」
「大袈裟な、山カカシで死ぬ人はおらんよ・・フフッ。」
あの時、柴田が背中に冷たい脂汗を感じた時には、蛇は竿に絡められ遠くに投げられていた後であった。下流に着水した蛇はスルスルっと対岸に渡り、草むらに消えていった。この時、初めて大きく息をした柴田は目の前に大きな男がいるのに気付いたのだった。気付いたのだが、声を掛けられないほど気が動転していた。それ程、蛇が・・・
「・・死ぬほど嫌いだでよ、・・・」と、言う訳であった。
「それにしてもよ、おみゃあさん・・・寺岡さん、何処で釣ってござったの?」改まって言い直した。
この日、柴田もかなりの鮎を釣り上げたのだったが、寺岡修三の引船から出された鮎は、驚くほどの数量だった。「河津館」には水槽小屋が設けてあり、釣り客はそこに釣った鮎を生かしておく。柴田は、尾数を勘定しておとり缶に移し変えたが、他の客との談笑をしながらうろうろしていた。そこに、寺岡が現れてたらいに釣れた野鮎を「ドサッ」、と開けたものだから、
「あっ・・・」驚きは二重であった。蛇を竿に絡めて、投げ捨ててくれた人だったからである。たらいと寺岡を交互に見て、
「あっ・・あっ・・あぁぁ・・・」声にならなかった。
夏、・・・セミ群が啼鳴し、川面に翡翠の影が走る。足元の水の冷たさを心地よく感じている時、フッと、その名を思い出す時がある。その後、河津川で時々会うこともあったが、いつの間かその姿を見ることは無くなった。
柴田は、寺岡修三という名を知った。